タリーズコーヒージャパン創業者であります、松田公太さんの半生を綴った起業物語です。
松田さんほど、育ちながらにして、国際感覚を身に着けた人は稀でしょう。
彼は1968年12月、宮城県に生を受けます。
彼の父親は水産会社に勤めていました。
その為、転勤が多く、彼が5歳のとき、西アフリカのセネガルに転勤のため、家族全員で移住しました。
父親は、非常に厳格で、さらにローマではローマ人のように振舞うという「現地主義」を徹底的に実践する人でした。
現地の学校に通い、現地のものを食べる。
そのようにして、彼の価値観は形成されていきました。
食文化の重要さに目覚めたのもセネガルの頃でした。
アフリカでは珍しい日本人。
やはり、いじめの対象のなることがありました。
「中国人」と揶揄されることもありました。
その後、帰国します。
東京都、大田区。
小学校では、算数や漢字で差がついていました。
日本語がたどたどしいこともあり、「アフリカ人」というあだ名がつきました。
やがてひとつ学年があがり、10歳になると、ボストン近郊のレキシントンに移り住みます。
英語にとまどいました。しかし、アメリカでは不安にしていたいじめはなく、「クーツ」という愛称で親しまれました。
このころ、食文化に対する興味が、使命感へと変化します。
当時アメリカではあまり食されていなかったお寿司を広め、ひいては「日本の食文化を海外に広め、外国人が持つ日本食へ先入観をかえること」、また逆に「外国の食文化を日本に紹介すること」を自分でやってみたいと考えるようになりました。
アメリカには高校卒業まで暮らし、大学入学と共に帰国しました。
筑波大学に入り、アメフト部で汗を流しました。
バブルの頃の異常ともいえる接待漬けの就職活動を経て、三和銀行に入行します。
銀行時代は良い波も悪い波も経験しました。
このとき、弟が亡くなりました。
何もしてあげられなかった悔しさで胸が痛みました。
「あのとき、もし私が金持ちだったら……そう思うと、今でも悔しくてたまらない。」(115page)
そして1995年12月、まだ三和銀行に在籍しているとき、友人の結婚式に出席するため、ボストンを再び訪れました。
そこで、スペシャリティコーヒーと出会うのです。
嫌な酸味がなく、コクがあるコーヒー。
彼はドリップコーヒーのあとすぐに今度はラテを飲みました。
その味に感動した彼は、帰国後再度アメリカにわたり、シアトルでコーヒーショップを行き当たる限り飲み歩きました。その数は50店に上りました。
タリーズには、そのとき出会いました。
最初の一口で感動を覚え、その感動は飲み歩きを終えるまで変わりませんでした。
帰国後、彼は早速、タリーズに連絡を取りました。
銀行での業務を終え、深夜にメールを送り続けました。
しかし、返信は「ご忠告ありがとう」という程度のものだった。
彼はあきらめなかった。
タリーズの代表トム・オキーフが帝国ホテルに滞在していることを知り、押しかけた。
そこで彼は、タリーズが日本で成功するには、徹底的なブランディングが必要だと諭した。
タリーズに必要なのは、大手の流通に乗せることではなく、1等地である銀座の店舗なんですと説得した。
オキーフはこれに反応した。
ついに、何の資本的バックグラウンドのない彼と契約が交わされた。
本文は、このあと銀座に1号店を出し、苦労しながらも店舗を増やし、上場したあとの出来事まで、言及されています。
しかし、松田さんの濃密な人生を考えると、ここまででも十分得られることがあるでしょう。
私達が、彼の半生から得る行動指針は、次の通りです。
「幼い頃からの興味をもう一度見直す」
「そして、その興味を人の役に立てる方法を考える」
彼と同様、私達が小さい頃から興味を抱き続けた対象には、相応の知識、こだわりが詰まっているはずです。
その知識はきっと、人の役に立てる道があるはずです。
Keep knocking!

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